facebookの公共性

たまたまはてな見てたら話題になっていたエントリーを興味深く拝見

facebookの古い悪習に、僕らがNo!と言う理由 (しっぽのブログ)
http://sipo.jp/blog/2011/02/facebookno.html

色々な意見があっていい話だと思う。
それはさておき、コメントの中に"公共性"という言葉が出てきていた。


直接言及がされているわけではないんだけど、facebookが普及している欧米では、就職や転職時にfacebookやLinkedInが広くつかわれているという話をどこかで耳にしたのを思い出した。
普段何気なく使っているTwitterに関しても同じことが言える。


それら発言はあまりにも無防備である可能性があるし、意識してしまうとたぶんそれはそれでこれまでと同じ楽しみ方と言うのは享受できないんだろうな、と思う。
もちろん、意識して発言をするということによる恩恵を受けることもまた出来るんだろう。


日本では特に、ありのままの自分を出すという行為に対してはかなりの抵抗があるのは事実。
ただ、思うに、匿名や通名を使うことで発言をしている内容は本当にありのままなんだろうか?
匿名や通名を使うことで、ありのままの自分から離れた、別の誰かを作り上げて発言し、だんだんとエスカレートした状態になってしまう可能性もある。
炎上している事件や事故に参加するのは、悪意を持って参加しているとは限らずただの野次馬でしかないかもしれない。しかし、発言だけを見ると、それは結局悪意ある発言にしか見えない。


どこかで、何かによって自制はかけなければいけないし、それによって生まれた発言は、別に自分を出していないと言うことでもないと思う。ちゃんと自制出来たということを表しているわけだから。
その自制を産むのが実名であるかもしれないし、そうではない違うものなのかもしれない。


これらが本当に公共性を持った時。
日本においてもその人を知る一つの指標としてこういったものが使われる時が来るのだろう。
ただ、それはあくまでも指標の一つであってすべてではないんじゃないかな〜?とも思った。
まぁ、なってみないとわかりませんね。


実際問題、facebookのフレンド=交友範囲だとすると、私の社交性は限りなくゼロに近い!!!
いや、実際にそんなに社交性がある方でもないかもしれませんが・・・Give me 社交性